BMW 502
1954年のジュネーヴショーにデビューした502は、501と同じ車体に戦後の西ドイツ初のV型8気筒エンジンを搭載した高性能モデルで、
V8の搭載はメルセデスベンツが1963年に「600」で復活させるより9年も早く、高性能エンジンに賭けるBMWの威信をかけての開発であった。
排気量は2,580ccで100馬力を発するこのエンジンで、502の最高速度は160km/hに達し、メルセデスの同級車を凌ぐドイツ最速の4ドア・サルーンとなった。
後には3,168cc120馬力版も追加され、高速性能は一段と高められた。
外観上502は501よりクロームメッキのトリムが多く、フォグランプとセパレートシートも標準装備となっていた。
501同様にバウア製の2ドアのクーペとカブリオレも用意された。これら2ドアモデルは1956年にはBMW 503、さらにはBMW 507
という高級スポーツカーへと発展した。
BMW・501/502は同時期のボルクヴァルトの6気筒モデルよりは商業的に成功し、BMWのイメージ再興にも大きな役割を果たしたが、
このマーケットで圧倒的な強さを誇るメルセデスの敵にはなり得なかった。敗戦国ドイツにおいてはこのクラスの高級車の需要は限られていた。
501~507という大型高級車とサイクルカーのBMWイセッタとその発展型のBMW600という両極端しか持たないその車種構成が災いし、
BMWは1950年代末にはBMWは経営破綻寸前にまで追い込まれた。
ダイムラー・ベンツへの吸収合併寸前の1959年にBMWを救ったのは、ナチスとの親密な関係を持ち、強制収容所のユダヤ人を
自身の工場で酷使して富を築いたヘルベルト・クヴァントであった。クヴァント家の支配下、同年に600のコンポーネンツ流用で発売された
コンパクトカーのBMW700と、続いて1961年に発表された先進的な中級乗用車BMW1500(ノイエ・クラッセ)が相次いで成功を収めた結果、
BMWの業績は急速に改善し、501/502シリーズもその生産を継続できることになった。
台数は少なかったが、当時の日本へも輸入元のバルコム・トレーディング・カンパニー
によって輸入された。
政治家・実業家の藤山愛一郎
も502のユーザーの一人であった。